2012年1月22日

『不在の騎士』イタロ・カルヴィーノ


中身が空っぽの真っ白な甲冑が騎士を名乗りシャルルマーニュに仕えている。
そこに青年貴族やら女騎士やらが加わり、語り手である修道尼テオドーラの筆は多くの出来事をすっとばして手短にまとめ上げ、不在の騎士アジルールフォの物語は終わりを告げ、テオドーラの物語が始まる。

今後カルヴィーノは集中的に読みたいです。


『聖なる酔っぱらいの伝説』ヨーゼフ・ロート


『聖なる酔っぱらいの伝説』

炭坑夫としてパリにやってきたアンドレアスは、いつしかセーヌ川の橋の下で暮らしていた。
アンドレアスは酒飲みである。
ある日、偶然に金を手に入れる。それを使う。また偶然によって金を手に入れる。やはり使う。
いいことがあったら酒を飲み、つらいことがあると酒を飲み、何もなくても酒を飲む。
偶然の幸運に導かれるようにして、彼は最後を迎える。

『四月、ある愛の物語』

町にやって来た男が女と同棲する。
男は郵便局長の家の二階の窓辺に立つ娘に恋をする。
同棲している女から、娘は病気で余命幾ばくもないと聞かされる。
男は町を出て行くことにする。
駅で男は窓辺の娘と会う。
間近に見る娘はいかにも健康そうだった。
その足で男はニューヨークへ行った。

『皇帝の胸像』

オーストリア帝国領東ガリシアにモルスティン伯爵なる人物がいた。
戦争が終わり、帝国は解体され、東ガリシアはポーランド領になる。
モルスティン伯爵は、東ガリシアは依然帝国領であると考える。
彼は屋敷の前に皇帝の胸像を飾る。
政府により胸像の撤去命令が下る。
モルスティン伯爵は胸像を丁重に葬る。

物語中の出来事を淡々と要約しただけではわからないですが、
作者は生のよろこびを書いていると思われます。
同時に、解説にもあるように、そのよろこびを信じていないです。
これらの小説は黄昏という言葉を連想させます。




『めくるめく世界』レイナルド・アレナス


メキシコの修道士セルバンド師の遍歴の物語。
自説が異端とされたため、スペインの監獄に収監され、そこを脱獄したが、また別の監獄に収監され、さらに脱獄し、その後も収監されては脱獄するという具合に、この人物の生涯は脱獄の繰り返しです。
ヨーロッパを渡り歩き、トラファルガーの海戦を目撃し、メキシコ独立のために反乱を起こしたりもします。

テクストは一人称、二人称、三人称の三種類から成っています。
一人称はセルバンド師の語りによる空想と誇張の物語。
二人称は作者がセルバンド師に語りかける言葉。
三人称は史実を客観的に叙述しています。

というわけで、一人称による第一章が終わると、次は二人称による第一章が始まり、その後、三人称による第一章が続きます。
第一章が三つあるのです。

かといって全部の章が三つずつあるわけではなく、主として一人称による章立てが多いです。
空想的な出来事や狂騒が縦横に展開し、全体として奇妙な伝記に仕上がっています。


『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス


ブエンディア一族の歴史。
マコンドという村の誕生から滅亡に至るまでの過程。
メルキアデスの羊皮紙。
豚のしっぽで始まり豚のしっぽで終わる物語。

ラテンアメリカの歴史と混沌をそのまま小説にしたような趣があります。
現実と非現実が違和感なく溶け合っていますが、幻想的な雰囲気はむしろ乏しく、一層現実的な、湿気の多い空気と熱帯の暑さを漂わせています。


『ハドリアヌス帝の回想』マルグリット・ユルスナール


年老いて病に臥しがちになったハドリアヌス帝が皇位継承者であるマルクス少年(後のマルクス・アウレリウス・アントニヌス)に自分の生涯を語って聞かせるという体裁をとった一人称による歴史小説です。
文章は密度が高く、晦渋ではありますが、見事なまでに彫琢され、美しいです。
歴史的事実、修正された事実、作者の創作、推測に基づく虚構、それらが皇帝の回想録を、実際には書かれなかったがもし書かれていたらきっとこういうものであったに違いない、と思わずにはいられないような回想録を鮮やかに紡ぎ出しています。

ただ、読み終えるまでにかなりの時間を要しました。




『停電の夜に』ジュンパ・ラヒリ


九つの短篇が収められています。
インド系アメリカ人の一世・二世の物語や、インドで観光案内をするタクシー運転手の話、インド人の女性に子守を依頼するアメリカ人の話等、どの短篇においても何らかの点でインドにゆかりのある人間が登場します。

夫婦や家族の日常生活を題材にしているものが多いです。観察力は鋭く、文の運びも巧いです。
特に、夫婦間の倦怠を書くことに長けています。
生活感のある小説、というのが率直な感想です。
そしてこの本の中では『三度目で最後の大陸』が一番気に入っています。



『ケプラーの憂鬱』ジョン・バンヴィル


主人公はヨハネス・ケプラー。コペルニクス死後に生まれた、ガリレオと同時代の人間。
コペルニクスの時と同様、学者が主人公の小説。
五部構成で、各部のタイトルがケプラーの著作名になっています。
1、宇宙の神秘
2、新天文学
3、屈折光学
4、世界の調和
5、夢

しかも五部であること、そして各部の節の数がケプラーの宇宙論に対応しています。
加えて、惑星の楕円軌道を意識して、各部の始まりと終わりが円環になるように書かれてもいます。
作者の形式へのこだわりを感じさせられる小説です。



『コペルニクス博士』ジョン・バンヴィル


第一章 軌道と光
ニコラス・コッペルニークの幼年時代から青年時代。兄アンドレアス。ポーランド、プロシア、イタリア。太陽中心の宇宙観に気付く。

第二章 芝居の先生
三〇代から五〇代にかけて。エルムラント。伯父。否応なく政治に関わっていく。チュートン騎士団。『小論』の発表。

第三章 宇宙の歌
この章だけは、他の章が三人称であるのとは違い、レーティクスの一人称で語られている。六〇代のニコラスの元を訪れたフォン・ラウヘン。『天球の回転について』の出版に至る経緯。

第四章 大いなる奇跡
最晩年。D.C.

もっと早くに読んでおきたかった本です。また、この小説の構造は実に興味深いです。



ヴォルテール『バビロンの王女・アマベッドの手紙』


『バビロンの王女』
バビロンの王女フォルモザント姫が、恋人のアマザンを追って、喋る不死鳥と共に世界中を旅する物語。確かジュリヤン・ソレルがこれを読んでいました。

『アマベッドの手紙』
書簡体小説。
インドに住むアマベッドと新妻のアダテと召使いのデラが、ヨーロッパからインドにやって来た教父に騙されてキリスト教に改宗したことにされ、そのまま船でローマへ連れて行かれることになる。その模様がインドに住む老大師シャスタシッドの元に手紙で逐一伝わってくる。
結末らしい結末はなく、未完成とも意図的な留保とも受け取れる結び方がなされています。



ヴォルテール『カンディード 他五篇』


表題作『カンディード』は傑作。文句なしに面白いです。

収録されているのは六篇。

『ミクロメガス』
『この世は成り行き任せ』
『ザディーグまたは運命』
『メムノン』
『スカルマンタドの旅物語』
『カンディードまたは最善説』


ドニ・ディドロ『ラモーの甥』


哲学者の<私>とラモーの甥。この二人の対話から成る18世紀の小説。
会話は至って明るく、対話の中身は非常に濃い。
芸術論や哲学論や当時の社会の揶揄や金の話など、話題の幅がとても広く、一読しただけでは内容を把握しきれない。にもかかわらず頁数は少ない。

作曲家ラモーの甥にあたる「ラモーの甥」は、彼自身も音楽家のような仕事をしている。
生活力は乏しく、貴族の子弟の家庭教師をやったり芸術家を庇護する貴族の食客をやったりしながら糊口をしのいでいる。
ある金持ちの家で道化を演じていたが、ふとしたことで自分に常識があることをひけらかしてしまい、その家を追放される。
カフェで<私>と出会い、オペラが開演されるまでの間、話し込む。

小説としても哲学書としても読める本。いずれ再読しようと思います。


オスカー・ワイルド『幸福な王子ーワイルド童話全集ー』


全部で9篇が収められています。
読んでいて思い出しましたが、高校時代、英語のリーダーの授業でワイルドの短篇を数篇読んだことがありました。ただ、当時は少しも面白いとは思いませんでした。

作品に度々登場するのが、三つの出来事ないしは試練です。
『漁師とその魂』では、魂が三度、漁師に自分の旅の遍歴を語って聞かせます。
『星の子』でも、星の子が金貨を三回取りに行かされます。
聖三位一体を表す三という数字は特別な意味があるという話だから、その辺から来ている構造なのでしょうか。
最初の一回で基本のパターンが提示され、二回目はそれを反復し、三回目でそれまでとは違う結末に至る。というのが基本のようです。

物語の結末は大きく二分されます。
幸せな結末、とまでは言えないにしても一応の救いが与えられる話。
中心人物の言動が周囲の人々に相手にされず、俗物性が余韻として残る話。
後者においては、相手にされない理由が自分自身に原因があるものと、周囲に原因があるものとに分かれます。

教訓を読み取ることも可能だし、美に対する崇敬やそれと対をなす世俗の愚かさを読み取ることもできます。
しかしここで注目したいのは、物語を彩る色彩です。
これらの短篇には様々な宝石や装飾品などが出てきて、実に鮮やかな世界を描き出しています。無論、綺麗な色だけではないですが、それらがテクストを構成する重要な役割を果たしています。

例えば、『幸福な王子』。
像は薄い純金の箔、目にはサファイヤ、刀の柄にはルビーが輝いています。
次に出てくるのは慈善学校の児童。こちらはあざやかな真紅の外套を着て、きれいな白い前掛けをつけています。
そしてつばめの登場。このつばめは大きな黄色い蛾を追いかけて川に舞い降り、そして葦のまわりを飛び回って銀色のさざなみを立てます。
つばめの語るエジプトの王のミイラは、黄色いリンネルに包まれ、首のまわりに淡い緑色の硬玉の鎖がかかっています。
大会堂の塔には白い大理石の天使の彫刻があります。
再びつばめの話。黄色いライオンが緑色の緑柱玉みたいな目をしています。
像の話。屋根裏部屋の青年の机にはしおれた菫の花。

このようにさまざまな色が作品中に登場しますが、この話の舞台は冬であり、基本的に街並みは薄汚れ、通りは黒く、さらには雪も降ってきます。
つばめが奔走するにつれ、街には輝きが横溢するかどうかはわかりませんが、幸福な王子の像は最後にはただの鉛の像になり果てます。
像の鉛の心臓とつばめの死骸は天使によって神のもとへ導かれ、そして幸福な王子の行く先は神の黄金の町です。

物語を追うだけでなく、文章に鏤められた様々な要素に着目することで、さりげなく読んでいた箇所が別の意味を持って鮮やかさを増してきます。少なくとも、『幸福な王子』では色彩が実に豊富なことがわかります。宝石の輝きが像の一点から街のあちこちに拡散する動き、というのがこの短篇にみられる運動ではないでしょうか。


チャールズ・ディケンズ『クリスマス・カロル』


クリスマスイブの晩、吝嗇なエブニゼル・スクルージの元に、仕事の相棒だったジェイコブ・マーレイの幽霊が現れる。
幽霊は三人の幽霊がスクルージの元へやって来ると告げる。
そして、過去・現在・未来のクリスマスの幽霊がやって来て、スクルージは幽霊と共に過去や未来の自分の姿を目の当たりにします。

我が身を振り返らずにはいられない小説です。


ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』


主人公のユーゼフは30歳で独り者。
何やら小説を書いているらしい。
そんなユーゼフの元に教師のピンコがやって来て、
ユーゼフに学校に入ることを勧め、
半ば強制的にユーゼフを入学させる。

学校では、18になるかならぬかといった年齢の生徒たちが、「青少年」と「若いもん」との2つのグループに分かれて互いに争っていた。
「若いもん」を代表するミェントゥスと「青少年」を代表するスィフォンは顔くらべをすることになり、ユーゼフが審判をすることになる。
だがそんなこととは無関係に教師がやって来ては授業を進め、予習をしていない生徒たちは指された途端に青くなり何も答えられない。
授業後に顔くらべが行われ、スィフォンが勝利するものの、ミェントゥスはスィフォンを押さえつけ、彼の耳に彼の嫌う汚らわしい言葉を囁き続け、スィフォンは悶え苦しむ。

ピンコに促されるまま、ユーゼフはとある一家に下宿することになる。技師、技師夫人、女学生の三人家族。
ユーゼフは女学生に恋ともつかぬ複雑な感情を抱き、その現代的な女学生を打ち負かそうと罠を張り巡らす。

下宿を後にしたユーゼフは、作男に憧れるミェントゥスと共に、真の作男を探しに郊外へ行く。途中、ユーゼフのおばに会い、彼らは彼女の屋敷に招待されることになる。
屋敷で働く若い下男の中に求めていた作男を見出したミェントゥスは、さっそく彼ときょうだいづきあいをしようと試みるが、地主貴族たるおば、おじ、にはそれが奇怪なことにしか見えない。ミェントゥスの行動は、百姓と地主との間にある秩序の均衡に罅を入れることになり、やがて混乱が訪れる。

物語全体は三つに区切られ、その切れ目には作者の言葉と挿話が書かれています。

『子供で裏打ちされたフィリードル』とその前書き。
『子供で裏打ちされたフィリベルト』とその前書き。

この前書きでは形式について書かれ、
物語では成熟について書かれています。

何が書かれていたのか考えても何もまとまらず、何を読んだのかも未だによくわからない奇妙奇天烈な小説です。




ロジェ・グルニエ『編集室』


フランスの作家グルニエの短篇集。
新聞記者としての彼の経験がこの短篇集の中枢を形作っていると思われます。

本書の語り手の多くはジャーナリストであり、その語り手の視点で様々な人間の生き様やその生涯の一場面が簡潔に描かれていきます。
文の運びは上手いし、読みやすく、また人間に対する洞察も鋭い。
数多くの人たちとの交流の中で作者が培ってきた人間観、親愛の情、愚かしさ、虚しさ、そういったものが短い文章のなかにさりげなく、だが巧妙に含み込まれていると思われます。

登場人物たちに関して言えば、モデルはいるのかもしれないが、それぞれを血の通った人間として生々しく(人間臭く)描くことができるというのは、やはり凄いです。